2015年2月2日『ダイアモンドQ』僧帽弁閉鎖不全症について
“神の手"を最大限に生かす心臓ロボット手術の驚異
手術ドキュメント
AM11:03‐2時間ほど前から進めていた手術の準備が整い、渡邊剛医師はひょうひょうとした様子で、手術支援ロボット「ダビンチ」のサージョン・コンソール(遠隔操作台)に座った。
アームの操作レバーを指に装着し、手術を開始する。助手を務める外科医や看護師らが囲む、患者が横たわる手術台までの距離は約3メートル。室内にある数台のモニター画面の中ではロボットアームがちゅうちょなく心臓を覆う膜を切開し、内側へと入り込んでいく過程が大きく映し出されている。患者の傍らに肝心の渡邊医師はいない。一瞬「執刀医は誰なのか」が分からなくなる、何ともSFじみた手術光景だ。
患者は67歳男性。心臓弁膜症の一種、僧帽弁閉鎖不全症を患っている。一般的な開胸手術であれば、胸骨の喉元からみぞおちにかけておよそ20センチメートルから30センチメートルにわたって切り開き、左右に押し広げて行う「胸骨正中切開」という大手術になる。しかしダビンチなら1センチメートル程度の穴を数か所開けるだけ。身体に対する負担は比べようもないほど低く、半分程度の時間で手術を終わらせることができる。体力が著しく低下していた男性は、迷いなくダビンチ手術を望んだ。
渡邊医師が「手術中の女神です」と語る竹内まりやの歌声がしっとりと流れる中、手術室のわきにあるシャッターが開いた。ガラス越しに手術を見守る患者の家族たち。視線は自然とモニターに注がれる。固唾をのんで見守るとはまさにことのことか。
AM11:25-手術は順調に進み、すでに疾患のある弁は切除され、心臓弁を形成する作業に入った。「驚いたね。カチカチだよ」と渡邊医師がつぶやく。便が石灰化し、石のように固くなっていたのだが、手術に問題はない。弁輪を縮小する細かいリング上のひもを縫い付ければ完成だ。狭い心臓の中で助手が、アームの先でつまんだ針と糸をロボットアームに渡す。渡邊医師は一方のアームで針を刺すと、すぐにもう一方のアームに針を持ち替え、巧みに作った糸の輪に針を通して結んでいく。あとは心房を縫い合わせるだけ。
PM 0:10-予定通り、約70分で手術を終えた渡邊医師は立ち上がり、軽やかな足取りで手術室を後にした。
F1マシンさながら
ダビンチは、術者の遠隔操作によってメスや鉗子を装着したロボットアームを動かし、わずか1~2センチメートルの傷口から内視鏡下手術を行える手術支援ロボットである。そもそもは1980年代後半、戦地での遠隔外科手術用システム開発を目的に米国で研究開発が開始された歴史を持つ。「リンドバーグ手術」といって、大西洋をはさんで離れた位置から遠隔手術も理論的には可能といわれている。
手術部分の船名な3次元画像で映し出しながら手術できる上に、ロボットアームの手首に当たる部分を自在に曲げたり、回転させたりできる器用さは、人間には決してまねできない。狭い対空内でも緻密な手技が行えるよう、術者がメスを手元で5ミリメートル動かすと実際の手術部分では1ミリメートル動くように設定ができたり、手ぶれを補正する機能もある。ダビンチによる心臓手術は、従来の開胸手術とは比べものにならないくらい、身体への負担が小さい。
「術中の出血が少ないのはもちろん、術後の痛みも軽く、回復も早い。通常なら2週間はかかる入院期間も大幅に短縮できます。うちでダビンチ手術を受けた患者さんは、翌日には歩けるようになり、3日間ほどで退院していきます」と渡邊医師。
だが、日本ではまだ、渡邊医師が総長を務めるニューハート・ワタナベ国際病院と、大阪にある国立循環器病研究センター病院の2か所でしか、この手術は行われていない。保険の適応はおろか薬事承認、先進医療の指定さえも受けていないからだ。「そのため心臓のダビンチ手術は自由診療になるので、300万円もの手術費を全額自己負担していただかなくてはなりません。高額療法費制度も先進医療保険も使えません。開胸手術なら保険が利くため、20万円程で済む。この違いがダビンチの普及を妨げています」(渡邊医師)
今、ダビンチが薬事承認を受けているのは消化器・一般外科、胸部外科(心臓外科を除く)、泌尿器科、婦人科に限られる。2012年4月には、前立腺全摘除手術に対して保険が適用され、今後、保険が適用される分野は拡大していくことが予想されている。しかし、心臓への適用は、全く道筋が見えていないのが現状だ。
理由の一つは、ダビンチによる心臓手術の難易度の高さにある。厚生労働省が保険適用を認可するには、手術の安全性が担保されていなくてはならないが、下条では症例も少なく、担保はし難い。
前立腺がんや子宮がんなどの摘出手術とは異なり、心臓の手術は極めてデリケートで、わずかなミスでも死に至る懸念がある。心臓の動きを一時的に止められている時間には限りがあるため、正確さともにスピードも求められる。
「いくらメリットや安全性を訴えても、それが可能なのはあなただからでしょうといわれてしまったら、否定できないのがつらいところです」と、渡邊医師は苦笑する。
渡邊医師は、ダビンチを使いこなす難しさを、F1マシンの操縦を例える。「F1マシンは、F1ドライバーにとってはなんてことなくても、素人は乗れないですよね。エンジンをかけることされできないでしょう。それと同じでダビンチは、卓越した技術のある人が使うことで真価が発揮される機械です。操作を習得し、100人ぐらいの手術を経験してようやく一人前になれるのです。」
すでに熟練した医師にとってダビンチのメリットは、「頭の中で思い描いた手術が完遂できる」ことだという。椅子に腰かけた姿勢でできるので、体力的にも消耗が少ない。「医師も高齢になると視力が衰えますが、ダビンチなら拡大した立体映像なので、その辺の心配もありません。ダビンチによる心臓手術を世界で初めて行ったフランスの医師は70代でしたらが、20年前にこのロボットが欲しかったという名言を残しています」(同)。
手術できるのは世界に2人
日本医おける渡邊医師の存在は、唯一無二の異彩を放っている。
32歳の時は、留学先のドイツで、日本人最年少の心臓移植執刀医になった。帰国後は、新技術の導入や術式開拓にいそしみ、93年には、人工心肺を使用しない心拍動下冠動脈バイパス手術(オフポンプ)を日本で初めて成功させ、98年には重症患者への負担を軽くする覚醒下冠動脈バイパス手術(アウェイク)を日本に初導入した。
さらに99年には、内視鏡による冠動脈バイパス手術を席アで初めて行い、05年にはダビンチを使った心臓外科手術を国内で初成功させた。いずれも、患者に優しい医療、小さな傷で済む医療を追求した結果、たどり着いた成果といえる。
偉業の根底にあるので、ドイツ時代の恩師簿留守と教授の「Selbst ist de Mann(人に頼るな)」という教えだ。この言葉の意味を渡邊医師は「自分の中にしか結論はない」と解釈している。前例に頼らず、常識を覆し、次々と新しい術式を開拓してきた反省は、まさに、この言葉の通りといえよう。
もっか渡邊医師は、複数の心臓疾患をダビンチで手術できる世界に2人しかいない医師の1人である。ダビンチの適応する疾患は僧帽弁閉鎖不全症、心房中隔欠損症、バイパス手術、および心臓腫瘍の4つだが、渡邊医師は新たに大動脈瘤の手術もできるようになりたいとかんがえているという。
前人未到の項を目指し、彼はこれからも挑み続ける。