111日から3日まで新高輪プリンスホテルで日本胸部外科学会が開催された。時節柄ハイブリット開催となった。

ハイブリッド開催とはご存知のように現地に集合する形とウェブでディスカッションを聴取できるという利点がある。よって会場も少なくなり開催側にとっては開催費用の節約、遠くにいる学会員にとっては東京まで来なくても良いと言う交通費の節約などになるだろう。

 昔は多くの学会は地方で行われその土地の景色や土地柄などを見てもらうことも楽しみの1つであったし、夜は方々から集まった同世代の学会員たちに会うことができてそれはそれで楽しみではあった。しかしアメリカに倣ったのか日本の循環器学会あたりから同じ場所で常に行われるようになってそのような楽しみがなくなってしまった。

 私はすでに日本の外科系の学会はほとんど学ぶこともなくなったので行く事はないが、病院の施設基準を満たすための必要単位取得するために学会に付属した講習会があってそれに出席するために学会上を覗きに行った。

 卒業後15年目の間(金沢大学の教授になるまで)は、学会演題を何題出せるかと言うことが楽しみの1つであった。日本外科学会や日本胸部外科学会、日本心臓血管外科学会、日本循環器学会等をターゲットにして1人で複数題多いときは5題ほどの演題を出し教室全体の演題の数を競うことで自らの糧としていた。教授になってからは別の目的で行くことになり、当時流行り始めていたオフポンプ冠動脈バイパス術のシンポジウムや講演などを積極的にこなしていた。これは学会に行くたびに毎回思うことであるが、なぜ日本の学会はアメリカやヨーロッパからの海外講演者をこれほど呼ぶのだろうかと不思議に思っていた。

今回は主催が慶応大学外科と言うことで、また胸部外科学会は何年か前から会長が1人ではなく3人が合わさって連盟で会長職をすると言うことになり、その構成領域である心臓血管、肺、食道それぞれの教授が代表して会頭になった。

 なぜそうなったかと言うと日本胸部外科学会が資格認定制度を持たず、呼吸器外科学会は早くから離脱し日本呼吸器外科学会を作ったし、日本心臓血管外科学会も専門医機構を作り食道は症例が少なかったこともあり消化器外科に併合されてしまって胸部外科学会の立ち位置が非常に微妙になってきたことにある。

 日本外科学会はそれでも外科学会専門医と言う専門医機構があるためにまず卒業後に外科専門医を取った後に二階屋として専門医の申請をする。例えば心臓血管外科専門医等である。なので日本外科学会は今後も安泰であろう。

 日本胸部外科学会は専門医機構はそれぞれ独立してしまったので特に何も自らのアイデンティティーを示すものがなくなってしまったが、心臓血管外科を志した我々の世代は心臓外科の発表=日本教育学会学術集会と決まっていたし会長職になりたい教授もたくさんいた。だから会長職をしたい人がたくさんいるのに各領域ごとに1人ずつと言うのは大変順番が回って来にくいこともあり一挙総ざらえのような形で3人ごとにまとめて会長職にしたと言うことで何とか求心力を保とうと言う試みだろうと思っている。

 スポンサーも日本胸部外科学会であるかぎり、かなりのスポンサーが集まることもあり、相変わらず海外からの招請講演が多い。今回も20人近い海外からの招請講演のメンバーがホームページには載っている。

 いつも思う事だが、なぜ日本の学会はこれほどまでに外国人を呼ぶことが好きなのだろう。この現象の本質は有り体に一言で言ってしまえば日本の教授たちはいつもは自分たちが優れていると言っていながら内心はそう思っておらず、ヨーロッパアメリカの方がより医学が進んでいて日本が遅れていると思っているのではないかと言うことを示しているに過ぎない。このようなことを言うと反感も出るかもしれないが、本当である。

 確かに心臓移植等はヨーロッパアメリカは進んでいるし日本とは比べ物にならないし、また新しい医療の取り組みについてはアメリカは特にFDAが厳しいために新規医療機器の導入についてはなかなかにすすんでいない。これについてはヨーロッパの方に利点があり、アメリカで開発された医療機器はまずヨーロッパに行ってCEマークを取得するといった様子である。

患者さんも多いこともその集積結果を早く見たいと言うことで外国人を呼ぶ理由の1つだろう。

 また来ているメンバーを見てみると若い無名な医師が最近は特に多く、アメリカの学会の重鎮のような人々はほとんど来なくなっているようだ。それは招請費用を節約するためもあるだろうし(有名なアメリカの重鎮を呼ぶとファーストクラスの航空料金をしかも夫婦で要求される)、数を多く呼ぶことで見栄えを良くしようとする学会側の意図が見える。一方ヨーロッパの学会あるいはアメリカの胸部外科学会等は心臓血管外科医が少ないこともあってとても小さい規模で行っている。また会場は1つか2つに限定されているためにほぼ多くの学会は同じ会場で同じテーマを聞くことになる。専門家の集まりと言うのはこういうものでなければいけないのではないかといつも思う。会場を分けそれぞれの会場でそれぞれがしゃべっていることに何の意味があるのだろう。多くの人に参加してもらいたいと思えば応募されてきた演題を落とすわけにはいかず、たくさん採用しなければならない。そうなると多くのセッションを作りそれぞれが別々に討論などをすることになるし、シンポジウム落ちた場合には一般演題となるのでランクの下がった演題で1つのセッションを作ってしまう。これでは他領域から知識を得ることができなければ若い人の度胸だめしの発表の場でしかなくなってしまう。もう1点は実験等に対するセッションがほとんどないことだ。今教室を率いている多くの教授たちに共通する事は、多くの大学は臨床を重んじるあまり手術のできる人を主眼として教授選考を進めてきた結果研究、およびアカデミックマインドよりもより手術のできる人間ばかりを集めたことに起因する。当然教室内で博士号を授与するにあたっても教室主催者の教授はそのテーマを自分の分野の実験レベルで見つけることができず他の基礎系の教授に依頼し2年ほど預けて博士号をもらうと言う体たらくが続いている。これでは若い人たちが目を輝かせて研究をすると言う事はなかなかに難しい。東京都内の私立大学や私立医科大学ではそれでも良いであろうが地方の国立旗艦大学はもっとアカデミックマインドに注力し臨床に役立つような基礎実験を行って、ベンチトゥーサージェリーを実現できる研究をもっともっとやってほしいと心から思っている。

 

 年寄りになると口が多いといわれるがまた愚痴を書いてしまった。