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2015年5月1日『致知』 成功率九十九.七パーセントの心臓手術について

超一流をめざし修練を忘れず道を究めるべし 天才心臓外科医が開いた境地

天使の手を持つ天才心臓外科医と称される渡邊剛氏。これまで日本初の術式を数多く手がけ、昨年五月にニューハート・ワタナベ国際病院を開院した。心臓外科手術の成功率が全国平均約九十七パーセントと割れる中、渡邊氏のチームは九十九.七パーセントという驚異的な数字を誇っている。心臓外科の道にまさに一天地を開いてきた渡邊氏に、これまでの歩みや医師としての心得、プロの条件について迫った。

成功率九十九.七パーセント究極のプロ集団

-スタッフの方に病院を案内していただきましたが、ガラス張りの手術室やバラエティーに富んだ病室など、斬新な造りですね。

渡邊 患者さんの立場になって考えたときに、病院の空間というのは本来癒しであるべきなんです。ただ、なかなか現実はそうじゃなくて、四人部屋で見ず知らずの人と一緒に生活する。部屋も汚いし、食事もおいしくない。それじゃあ、心も休まらないでしょう。
 やっぱり気持ちが萎えると病気も治りません。「病は気から」というように、病気があっても気持ちが安らげば病状も和らぐじゃないですか。そういう病院をつくりたいとずっと思っていたんです。
 ですから当院は患者さんが気持ちよく過ごせるように、四十三床すべてが個室。特別室には黒を基調としたモダンな洋室から畳や障子、機材を取り入れた和室、女性向けの明るく可愛らしい部屋まで、いろんなタイプを用意しています。一般病室も単調にならないよう、絵画や壁紙に工夫を凝らしているんです。それから手術をガラス張りにしたのは、患者さんのご家族が手術の経過を安心して見守ることが出来るように、と考えた末に出た結論でした。

-患者さんとご家族を思う姿勢が随所に表れていますね。

渡邊 また、医療の技術面においても、僕らは世界最高水準の手術おw提供することで、これまで救われなかった数多くの患者さんたちのお役に立ちたいと思っています。
 日本の病院の心臓外科手術成功率は平均で約九十七パーセントです。つまり、死亡率は約三パーセント、百人手術したら三人は亡くなる。これは決して満足のいくレベルじゃないわけですね。一方、僕らは金沢大学病院時代の十五年間で成功率九十九.五パーセントという実績を上げてきました。そして現在では九九.七パーセントの成功率、死亡率は〇.三パーセントで、平均の十分の一です。昨年五月に開院して依頼、今年の三月末までに三百八件の手術を行ってきましたが、死亡はゼロ。

-圧倒的な数字です。

渡邊 いかに短時間で手術を終えるかが成功の一つの肝なんですが、そのためにはチームがうまく機能しなければなりません。心臓外科医だけではなく、各分野の一流を集めたプロ集団を創る必要があるんです。たとえば、弁置換手術で心臓を止めている時間の全国平均は約九十七分ですが、僕らのチームは約四十分で終えることが出来る。
 当院に集うメンバーは心臓外科医、麻酔科医、ナース、薬剤師、管理栄養士、理学療法士、秘書も含めて多くが金沢大学、東京医科大学病院時代に僕と一緒にやってきた仲間です。患者さんには必ず元気に帰っていただく。その一点だけを考えて仕事をしています。

-プロ集団を作り上げる上で、どんなことを心掛けていますか。

渡邊 負け癖をつけない。やっぱり患者が無くなる経験ばかりしている外科医は、確率論だから亡くなったとしてもしょうがないやと思う。そういう言動をとったスタッフには辞めてもらっています。

-今回の取材にあたって秘書の方とやり取りをさせて頂きましたが、非常に真摯な対応ぶりに感銘を受けました。

渡邊 そう言っていただけると、嬉しいです。スタッフの教育に関して特別なことはしていませんけど、「思いやりをもって行動してください」と常々言っています。あとは目を光らせて悪い芽は即座に摘むということですね。
 やっぱりそこは一本筋を通しておかないといけません。一人のスタッフがちょっと対応を誤って、お客様が「何この人、嫌だな」と思った瞬間に、もう病院全体のイメージが悪くなるでしょう。だからドクターやナース、清掃員、警備員に対しても、僕はそういう言動を見つけたら徹底的に正します。一人の対応いかんで組織の印象が全て決まるわけですからね。

二つの文化を持つことが人間の幅を広げる

-渡邊先生が心臓外科医を志されたのはどういうきっかけで?

渡邊 僕はもともと会社員の倅なので、全く医師の畑じゃなかったんですけど、友達が「この漫画、面白いよ」と言って、手塚治虫の『ブラック・ジャック』を貸してくれましてね。

-おいくつの時ですか?

渡邊 中学三年生だから十四か十五の時ですよ。将来、普通の会社員で終わるのはつまらないと漠然と思っていたときに、自分の腕一本で人を助ける素晴らしい仕事に魅せられました。ああ、これは外科医しかないと道が決まったんです。
 ただ、当時あまり成績はよくなくて(笑)。進学校の麻布学園に通っていたんですけど、三百人のうち二百番くらいだったので、普通は医学部にも入れないんですよ、だから必至に勉強し、浪人して金沢大学医学部へ入りました。
 医学部には入ったけれども、将来どうしようかと悩んでいたときに、たまたま弓道部の十年上の先輩が、ドイツ修業から帰ってきたんです。向こうで手術もしてきたと聞いて、「よし、俺もドイツへ移行」と。日本にいてもなかなか手術させてくれませんでしたから。

-ドイツ留学を決意された。

渡邊 金沢大学病院には三年ほど在籍して、その後は横浜の関連病院にいました。そこで出会った田中信行先生からも「絶対に留学しろ。ただし、研究で言っても意味がない。患者さんの手術ができるとことに行きなさい」と強く勧められたんです。その先生はこうも言いました。「留学するということは、単に手術をするチャンスをもらえるだけではなく、自分の中に二つの文化を持つことだ。それは人間としての幅を広げる」と。
 後進である日本の心臓外科の文化だけ知ってもしょうがない。本場の文化を知ろう。僕自身もそういう気持ちになって、国費留学試験を受けました。二年目に通って、晴れてハノーファー医科大学へ留学しました。一九八九年、三十歳の時です。やっぱり人生は自分が強く思った通りになるんですね。

手術ができればあとは何も要らない

-あちらでの修業生活はいかがでしたか。

渡邊 僕は二年間、ドイツ心臓外科の父と呼ばれるボルスト教授のもとで学びました。ボルスト教授は当時六十歳くらいでしたけど、とにかく怖い人でしたね。
 まずドイツ語が全然分からないので、最初の四か月は語学学校に通いながらの生活でした。必至に単語や文法を覚えて会話をして、それでようやく仕事ができる程度の会話を身につけていったんです。
 当時は、毎日二、三件の手術に入るんですけど、執刀医によってやり方が全部違う。そうすると、この人はこういうふうにやるんだなって、それぞれのやり方を覚えるわけですよ。もちろんいいところもあれば失敗したところもある。それを全部ノートに書くんです。
 あとは手が動かないとしょうがないから、肉屋で豚の心臓を買ってきましてね。仕事が終わると、病院のすぐ横にあったアパート寮に帰って、血管を縫う練習を毎日やっていました。

-技術を磨くために仕事が終わってからも練習に励まれた。

渡邊 朝は七時くらいに病院に行くんです。八時から三十分ほど会議をして、そこから手術室に入ってだいたい夕方の四時まで缶詰です。終わって軽く食事をして、今度は五時からまた一時間くらい会議があるんですよ。それで家に帰ってまた練習をする。
 ただ、その時に緊急手術や移植手術も入ってくるんです。特に移植は夜中に多くて、「いまから臓器を取りに行け」とか言われてね、救急車や飛行機に乗ってスペインとかトルコにも行きました。
 それを運んだら、「じゃあ、おやすみ」って言うわけじゃなくて、僕は留学生でしょう。だから「おまえも入れ」という話になって、一緒に手術室に入る。そこの病院は年間で移植手術が百例、緊急手術も含めて千五百例くらいありましたからね。ですから、ほとんど休みは無かったですし、遊びに行くことも全然ありませんでした。

-凄まじい働きぶりですね。

渡邊 当時三十歳くらいですからね。肉体的には全然平気でした。だけど、最初の数か月は言葉が通じなくて鬱みたいになりましたし、中には意地悪な同僚が居ましてね。いじめられたこともあります。

-ああ、いじめも。

渡邊 あったんですけど、吹っ切れて、何とでも言えと(笑)。で、ある時、僕が静脈を綺麗にサッと取ったんです。そこから周りの目が変わりましたね。だから日本と違うのはすごくフェアだということです。相手の実力がすごいと分かると、途端に相手を尊敬する。

-裏での努力が実を結んだと。

渡邊 そうそう。練習していたからそれが評価されたんですね。だから、いつかチャンスが来たら、自分技術を見せつけてやるといつも思っていました。技術というのは人種や年齢、キャリアに関係ない。うまい人間は尊敬されるし、下手な人間は馬鹿にされる、厳しくもシンプルな世界です。
 それから、ひどかったのは食事です(笑)。日本はおいしい食事がありますけど、向こうにはないんですね。だから朝は何も食べずコーヒー、昼は患者さんの残したご飯。夜はレストランに行くお金もないので、家で粗食をつくって食べていました。
 でも、自分がいまおかれた環境に満足していましたね。食事なんかどうでもいい、お金も休みもいらない。手術ができればあとは何も要らないとおもっていましたから。

常に日の丸を背負って

渡邊 そういう中で、三か月目に初めてチーフとして執刀をさせてもらいました。その時、僕のでき上がりを見て、あの怖い教授が「教科書のように綺麗だ」って。そんなこと言うとは思わなかったから、嬉しかったですね。
 その後、半年くらい経った頃に、ボルスト教授の第一助手になりました。他のみんなはボルスト教授が嫌で避けるので、僕が必ず助手になるんです。僕は怖くても技術を高めるために必死でしたから、どんどん向かっていく。そういう姿勢が評価されたのでしょうね。三十二歳の時に日本人として最年少で心臓移植を執刀しました。
 その時はとにかく無我夢中でしたね。結果は大成功で、その患者さんは十一日目に退院しました。これはすごく早いですよ。まあ、運もついていたんでしょうね。ドイツ時代の二年半で二千件の手術を経験したことは僕の財産です。

-一年で千件ちかくとはすごいですね。その中でボルスト教授からどんなことを学ばれましたか。

渡邊 もちろん技術を学んだんですけど、それだけじゃない。やっぱり一番学んだことは、「人に頼るな」ということですね。最後はおまえ一人だぞ、と。いくらチームであっても、心臓外科医は一人で判断して、一人で決断して、メスと入れなければならない。だから、もしそれで患者さんが亡くなればおまえの責任だと言われました。これはいまも大切にしている心構えの一つです。

-何か大きな失敗をしたことはありましたか。

渡邊 ある意味、失敗の連続なのかもしれませんね。亡くなった方はいなかったんですけど、うまく助手が出来なくて出血したりとか、そういうことはたくさんありました。そのたび、反省しながら経験を積んでいきましたね。やっぱり楽しいものではないですし、成功させて当たり前というか。
 日本人の留学生がやっているんだから、まあいいじゃないかってわけにいかないでしょう。失敗したら日本人がやったんだといわれてしまいますからね。だから手術場では常に日の丸を背負っているという意識でやっていました。日の丸を背負っている以上、恥ずかしい思いをして終わりたくない、認めさせたいと。

-ああ、日の丸を背負って。

渡邊 初めは単に手術をしたい、腕を上げたいということだけだったんですけど、やっぱりそれは向こうに行って感じたことです。
 ドイツの文化と触れ合うことで自分は日本人なんだという原点を知ることが出来ました。この気持ちが留学時代の自分を突き動かす原動力になっていたと思います。

患者さんにとってベストな方法は何か

-帰国後はそれまで日本で誰も挑戦していなかった最先端の手術を手掛けられたそうですね。

渡邊 一九九一年に帰国し、まず取り組んだのが人工心肺を用いないオフポンプ手術でした。いまでは心臓手術の七割がオフポンプで行われ、そのための器械も充実していますが、それを 広めたのは僕なんです。
 当時、人工心肺が原因で百人のうち一人か二人は亡くなったり、合併症を引き起こしていました。それなのになぜ人工心肺を使わなければいけないのか、ずっと疑問に思っていたんですけど、ドイツでそういう手術を見たり、あるいはイタリアやアルゼンチンでもやっていると聞いて、これは日本でやらなきゃダメだと。僕はもうやるって決めたらそっちの方向に突っ走るタイプなので、まずは機械づくりから始めていったんです。

-器械をご自分で?

渡邊 そう。器械が無ければこの手術はできないので、それに必要な器械を手作業で作る。仕事が終わった後、工具店を回って材料を掻き集めて、プラスチックや金属を削ったりしてね。ドイツでのわずかな経験をもとに、あとはもう試行錯誤です。最初の器械が完成するまで1か月くらい掛かりましたね。手術道具はいまでもずっとつくり続けています。一九九三年、日本で初めてオフポンプ手術に成功しました。
 その後、傷が小さい「小切開手術」、全身麻酔ではなく局所麻酔下での「アウェイク手術」、外科手術用ロボット「ダ・ヴィンチ」を用いた手術などを手掛けてきました。
 僕は新しい、最先端なものに飛びついて行ったのではなく、患者さんにとってベストな方法は何かを考えた結果、そういうものに辿り着いたんです。

-ベストな方法を模索された。

渡邊 過去には自分が執刀した患者さんが亡くなったり、合併症を起こされたりした経験も何度かあります。そういうときはもう立ち上がれないくらい落ち込む。一か月はダメですね。その間、患者さんのことが頭から離れなくて、何をしても面白く感じられない。
 ただ、そこで僕はどうしたら次は同じ失敗を起さないで済むかと考えるんです。胸を開けなければ感染しなかったとか、人工心肺を回さなければ亡くならなかったとか、全身麻酔をしなければ急変に気づいたとか。結局、それがすべてですね。
 そういうことを糧にして、内視鏡手術s、人工心肺を使わない手術、局所麻酔の手術等、新しい術式を開発していったんです。もっといい方法があるはずだと。それが僕の仕事の本筋です。
 その根底にあるのはやっぱり患者さんを元気にしたい、助けたいという一念です。その視点さえ持っていれば、まず道を間違えることはないと思います。

プロは自分のことを人間だと思っていない

-これまで渡邊先生が大切にされてきた言葉は何ですか。

渡邊 四十一歳で金沢大学病院の教授になった時に、それまで折に触れて書き留めていた言葉を聖徳太子の十七条憲法に真似て、医師として、職員としての十七か条の心得を作ったんです(表参照)。「超一流をめざし修練を忘れず道を究めるべし。プロは自分のことを人間だと思っていない」
 これは医師として大事なことの第一に掲げている言葉です。技術者として自分の手はまるで機械なんだと思いこまないと、僕はプロじゃないと思いますね。つまり、絶対にミスなんかしない。引き受けた以上は必ず元気にして返す。手術中は自分の手を人間と思わず、徹底して精密な機械になり切る。
 そういう天から言って、いま僕らの手術成功率は九十九.七パーセントと全国平均から見たら高い数字ですけど、この数字にも全然満足していません。やっぱりめざすべきは百ですね。過去の数字の積み上げなので決して百にはならないんですけど、限りなく百に近い数字になるようにしていく。そうやって一生を終えるのかなと思いますね。

-渡邊先生は心臓外科医としてまさに一つの道を切り開かれたわけですけど、それにはどんなことが大切だと感じていますか。

渡邊 そもそも僕は、特に何かを切り開こうと思ってやってきたわけではないんです。人間はいつか死んでしまうわけですから、とにかく自分の医師のままに生きていこうと。自分の信じたことをやり遂げるために、必死になる。超一流になるための修練、努力をし続けることが大事だと思います。
 たとえどんな逆境にいても、努力してむだになることはないですからね。僕も患者さんが全然来ない病院にいたこともあるんですよ。
 ドイツから帰国して間もない頃、金沢大学から富山医科薬科大に八年間言っていたことがあります。そこは心臓手術が年間二十例くらいしかなかったんですよ。だけど、どうしたらここで患者さんを集められるかなと、腐らずに一生懸命にやっていました。それが最終的に二百例くらいに手術が増えていったんです。

-どんな時でもその場で全力を尽くす。それが一天地を開くことにつながるのですね。

渡邊 そう。だから時間は掛かるけど、やっぱりどんな逆境にあってもいまいるところで最大の努力を見ている人がいて、あいつこんなところにいるけど、一生懸命やっているなと。それで新しいステージに引き上げられる。その積み重ねによって、いつの間にか一つの世界が開かれていくんです。

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